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【株】日銀VSヘッジファンド、今再び

最近、日銀のイールドカーブコントロール(YCC)に対し、内外で見直しの圧力が高まっています。背景には、YCCによる低金利が円安を呼び、そして円安が輸入物価を押し上げて人々の生活を脅かしているとの批判があります。また、少し前まで日本と同じようにマイナス金利下にあった海外の中央銀行が、今や雪崩をうって金利引き上げモードに移るという外部環境の変化があります。日銀が国内世論や外部環境の圧力をどう凌ぐか、あるいは金融政策の変更に追い込まれるのか、予断を許しません。

インフレ圧力を受け主要先進国が軒並み金融引き締めに入る中、日本だけが金融緩和を継続することは困難であるとして、複数の海外ヘッジファンドが日本国債先物の売りや円金利スワップのペイ(払い)ポジションを積み上げているようです。ところで、海外ヘッジファンドが日銀に挑むのは今回が初めてではありません。


私が円債のディーラーをやっていた1990年代半ば、10年もの日本国債の利回りは4%~5%の水準でした。その後、バブル崩壊による株価下落・地価下落やデフレ経済への転落で長期金利は低下の一途を辿り、ついにはマイナス金利に突入しました。その間、政府も手をこまねいていたわけではありません。再三にわたり総合経済対策を打ってきました。しかし、景気は上向きに転じることなく、赤字国債増発により政府債務だけがいたずらに増大していきました。
そんな日本国経済の状況を見て違和感を感じたヘッジファンドの一つに、ジョージ・ソロス率いるクォンタムファンドがありました。マーケットの原理からすれば、増発された日本国債は供給超過で価格は下落(金利は上昇)するはずです。しかし、実際には日本国債利回りは低下の一途を辿っている。そこをソロスは収益チャンスと捉え、割高な日本国債に空売りを仕掛けました。
百選錬磨のジョージ・ソロスでしたが、この時は日銀に軍配があがりました、それだけ金利低下圧力が強かったというわけです。もっとも、当の日銀もその後のデフレ経済、マイナス金利を予測していたかは疑問ですが。

クォンタムファンドには、イギリス中銀(イングランド銀行/BOE)と闘って勝った輝かしい実績があります。1992年のことです。イギリスは欧州為替メカニズム(ERM)に加盟しており、ポンドが一定のレンジ内に収まるよう為替管理をする必要がありました。しかし、当時イギリス経済は不況下にあり、中央銀行は金利を引き下げ景気を刺激すべき状況でした。金利が低下すれば、ポンド安となります。BOEは本来であれば「金利引き下げ→ポンド安→景気回復」とすべきところ、ポンド安を回避するため無理やり為替介入し、外貨売りポンド買いを継続しました。そこをクォンタムファンドは見逃しませんでした。大量のポンド売りを外国為替市場で仕掛けたのです。BOEはクォンタムファンドのポンド売り圧力に耐えきれずポンド買いを断念、結局イギリスはERM離脱に追い込まれました。因みに、この1件でクォンタムファンドは15億ドルもの収益を上げたと言われています。

目下、日銀はYCCという制度を死守するため、金利上昇圧力を強引に抑え込みに行っています。マーケット原理に反している点で、BOEの事例と同じです。ただ、BOEのケースではポンド買いの原資が外貨であり量的限界があったわけですが、日銀のケースは国債を買う原資が円キャッシュで日銀が輪転機を回せば理論上は制限がない点で異なります。

日銀VSヘッジファンドの第2ラウンド。今回はどちらに軍配が上がるのでしょうか。

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閑話休題

【閑】心にしみる言葉

「苦しいときは、私の背中を見て」
2008年、北京オリンピック。準決勝でアメリカに敗れた「なでしこジャパン」は史上初のメダルをかけて3位決定戦に挑みました。相手は世界ランキング2位の強豪ドイツです。日本は高さとパワーを誇るドイツに序盤から攻め込まれ、後半24分に点を取られてしまいます。絶対絶命のピンチ。しかし、キャプテンの澤穂希選手は試合前、チームメイトに「苦しいときは、私の背中を見て」と伝えていました。その言葉通り澤選手は諦めることなくボールを追い続け、チームメイトたちも澤選手の背中を見て必死にボールに食らいつきました。
結局、メダルには手が届きませんでしたが、最後までグランドを走り続けた「なでしこジャパン」の姿に世界中のファンが拍手を送ったのです。
そして、この1戦が2011年FIFA女子ワールドカップドイツ大会での「なでしこジャパン」の優勝に繋がっていきました。
この一言が言える経営者、リーダーが果たして日本の会社に何人いるでしょうか。

「死にたいときには下を見ろ。俺がいる。」
「絶対悲観主義」(講談社+α新書)で経営学者の楠木建さんが紹介しているのですが、波瀾万丈の人生を歩み人生の底辺を見続けた「全裸監督」村西徹監督の言葉です。
きれい事ではない真実が持つ言葉の優しさと力強さを感じます。

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閑話休題

【閑】ヘタレの趣味

私の趣味は山登りとスキューバダイビングです。この二つは20代で始め、アラカンの今に至るまで細々と続けています。なぜ山登りを始めたかですが、ひとつには父の影響があると思います。父は高山植物や渓流釣りが好きで、私は小さい頃からよく父に連れられ近くの山へ行っていました。

私は物心ついたとき既にデブで、そのせいか駆けっこをはじめ運動がとてもとても苦手でした。私の通っていた小学校は、運動会で全校生徒に駆けっこの予選と決勝を戦わせ、ご丁寧に優勝から最下位まで順位を付けていました。私は午前中に行われる予選で最下位となったうえ、予選の最下位を集めた午後の決勝?において再び最下位となりました。私はこの「キング of 最下位」のタイトルを、小1から小6までの6年間守り抜きました。不動のチャンピオンだったのです。
今思うと、年端の行かぬ子供に随分と残酷な真似をしてくれたものです。おかげで今でも街角で小学校の運動会に出くわすと、不意に胃液が込み上げてきます。こんな生来の運動オンチにできるスポーツといえば、山登りくらいなものでした。これが私が山登りを始めたもう一つの理由です。

今では山ガールなる言葉もあり、山登りにはオシャレでポジティブなイメージがありますが、私が20代の頃は山登り=3K(キツイ、キケン、キタナイ)と言われ、若い女性から忌み嫌われたものです。ヘタレな私にも人並みにモテたいとの欲望はあったので、私はまわりに自分が山ヤであることを封印しました。
バブル華やかなりし当時、女性に人気のスポーツと言えば、テニス、スキー、ゴルフ。運動オンチな私には、どれもハードルが高すぎます。しかし、そんな私にもできそうで、かつ女性受けしそうなスポーツが一つだけありました。スキューバダイビングです。当時、原田知世さん主演の映画「彼女が水着に着替えたら」が流行っていました。映画の中で原田知世さんはダイバーを演じています。映画を見た私はこれだと思い、ダイビングショップへ直行しました。
残念ながらダイビングを通じて彼女をつくることはできませんでしたが、ダイビングは今でも私の渇いた心をリフレッシュしてくれる大事な趣味です。

最近、65歳の定年退職後を見据え、社会人の山の会に入りました。上は75歳から下は35歳まで。58歳の私がちょうど平均年齢です。有り難いことに先輩会員の方が頻繁に山に誘ってくださるので、今は月に2回ほど山に登っています。山の会というのは先鋭化によるマウントの取り合いが起こりがちなのですが、私が登るのは標高2000m程度の中難易度の山までとし、安全第一で行きたいと考えています。
ダイビングもコロナの影響でこの3年ほどご無沙汰ですが、この夏は月2ペースで海に通うつもりです。ショップによると、太平洋側では潮流の変化で紀伊半島のコンデションは余りよくなく、逆に伊豆半島が透明度抜群でグッドコンデションとのこと。これも気候変動の影響でしょうか。
当面、山に海にと資金負担が嵩みますが、ほったらかし投資の株たちがプレゼントしてくれた配当で何とか帳尻が合いそうです。